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satyanamak*motiDD

Author:satyanamak*motiDD


2006年夏、
人人人ひしめくムンバイに
猫猫ひきつれやってきた二人組。
夫 Satyanamak と妻 MotiDD
2008年11月には新たに
ムンバイ生まれのチントゥーも
登場しました。

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【MotiDD】映画『English Vinglish』私見

10月22日, 2012 | インド映画

3 Comments
『English Vinglish(=エーゴだとか何だとか)』を観た。
英語のできない家庭の主婦が、姪の結婚式準備のため単身ニューヨークへ行き、
はじめは英語で苦労しながらも、一人ひそかに決心して英語学校へ通い始め、
やがて英語力を身につけるとともに自分への尊厳を取り戻していく……というお話である。

English Vinglish

この話、ふたつの点で、私には非常に共感できるところがあった。
ひとつは、社会的に評価される機会のない家庭の主婦が
自分の価値を見いだすために苦心している点。
もうひとつは、主人公がヒンディー語話者で英語が話せない、という点である。

もちろん生粋の日本人である自分を、“ヒンディー語話者”とは呼ぶのは間違っている。
しかしインドの都市部で「英語を話せない人間」というのは
イコール「高等教育を受けていない人間」と見なされる。
これは、「中高六年間の英語学習よりも専門学校二年間のヒンディー語学習の方を
熱心にやり、その後もインドやヒンディー語ネイティヴたちと関わり続けることで
ヒンディー語力は伸ばしたが、英語にはたいして注意を払わなかった日本人」
の私にも、なんと適応してしまうらしく、
「高等教育を受けていない人間」的に見られることが、ままある。
そういう意味で私は、このインド社会において自分を
“ヒンディー語話者”と位置づけて差し支えないと思っている。

ほぼすべて英語で行われているヨガのクラスで、
急に先生が思い出したように一言ヒンディー語で話したな、と思うと、
先生の顔は間違いなく私に向けられている。それは私にのみ向けて発された言葉である。
「英語も習った方がいいわね」と、その先生にも言われたことがあるが、
ヨガクラスに来ている他の日本の人が、英語で先生に話しかけられてとっさにわからずにいるとき、
それを日本語に通訳しているのはいつも出しゃばりでおせっかいな私だ。
しかしそのことに気づいている人はおらず、
先生が英語で言った「水曜日は休みです」というような簡単なことでさえ、
私が理解しなかったと考え、あとで親切なご婦人が
「水曜日は休みだそうよ」とヒンディー語で耳打ちしてくれたりする。

また以前インド人の友人とチャットをしていて、彼が“line”という言葉を使ったあと、
突如として沈黙したのでどうしたのかと思ったら、
「“line”(ライン=線)をヒンディー語でなんて言うのか考えてた」
と言われ、びっくりしたことがある。つまり、「英語で話さない」イコール
「ひとこともわからない・読み書きもできない」と理解されるのである
(アルファベットを使ってブラインドタッチ並のスピードでチャットしているにも関わらず、である)。

このように六年間ここで“えせヒンディー語話者”として生きてみて実感していることだが、
「英語よりヒンディー語の方が好きな風変わりなガイジン」という
私の実感に添った見方をしてくれる人はあまりおらず、
「英語の話せない」「教育を受けていない」「気の毒な」人、という同情あるいは
軽い蔑みの目で見られることの方が圧倒的に多い
(逆に英語を話せない本物のヒンディー語話者からは親しみの目で見られる。
ヒンディー語は彼らとうち解けて話す手助けをしてくれ、
心からリラックスした愉しい時間を過ごさせてくれる)。
なかなか理解しづらいことかもしれないが、これはひがみとかではなく、
素直な実感でしかない。そしてやはり、ひどいなー、と思う。

映画の中で、二児の母である主人公の主婦は、娘の保護者面談に行くことになる。
十代にさしかかったあたり、虚栄心の強い年頃の娘は、
英語の話せない母親をクラスメートやその母親、先生に会わせることを忌み嫌い、
「お母さんは病気で来られないって言うから。来ないでお願い」
「PTAの意味だって知らないくせに!」と言い募る娘に、
「PTAの意味は知らない。でも、Parents(親、保護者)の意味はよく知ってるわ」と
答えて面談に行き、先生にヒンディー語で話してもらうようお願いして、
なごやかに面接を終えて、家へ帰ってくる。
しかし娘はあくまで恥と捉え、ひどい思いをしたと母をなじる。

この母親、家事を立派にこなす傍ら、手作りお菓子の宅配ビジネスも手がけ、
おまけにサリーの似合う美人で、私に言わせたら非の打ち所のないパーフェクトな女性。
しかもわざわざヒンディー語紙を自分だけのために購読し、
新聞に毎日目を通して世の動きにも目を光らせている。
メディアといえばテレビ、
テレビといえば嫁姑ドロドロのホームドラマやコメディ、神様ものドラマ、
でなければ歌や踊りのコンテスト番組しか見ない人々が大多数を占めるなか、
こんなインテリな良妻賢母には、そうお目にかかれない。
それなのに、「英語ができない」というただの一点だけで、
子どもと夫から笑われ、疎外感と無力感に襲われ、
次第に自尊心をむしり取られてゆくのだ。

マラーティー語でお弟子さんたちに教えていた音楽家・故ラナデー先生が
「いまのムンバイに、何かひとつの言語を満足に話せる人はいない」と
おっしゃっていたそうだ。
母語であるマラーティー語も、外国語で準公用語である英語も、
国の公用語で他言語地域の人々との会話や映画・テレビに使うヒンディー語も、
いずれも中途半端。
こんなことで詩や文学はどうなるのだろう。
何語で心のうちを語ればいいのだろう。
インドで生まれ、インドで育ち、インドを表してきた言葉はどうなっていくのだろう。
危機感を抱きながらも、「まともな現金収入を得るには英語」と何十年もやってきた結果、
誰も後戻りはできなくなっている。
人を誤った基準で量り、分け、隔てる。社会を見えない壁で二分する。
それが現代の、インドの言語が抱える残酷な現実。

最初はヒンディーで話していても二言目には英語に戻っていってしまう人に
「すみませんがヒンディー語で話してもらえますか?」と言うたび、
だからちょっとずつ心が暗くなる。
ものすごく深刻な問題だと思うのだが、この『English Vinglish』でも
「いくら知的に豊かでも、英語が話せないとまともな現代人と認められない」という問題は
「主婦と自尊心の回復」に中途ですり替えられ、満足に語られることはなかった。
この点がとても残念である。

Blue Saree
意地悪なカフェ店員にいじめられ泣くシュリーデーヴィー。青いサリーがきれいすぎる!
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