クリシュナ生誕祭を皮切りに、ガネーシャ、ドゥルガー、ラーマにラクシュミーと、
ヒンドゥー教のお祭りが目白押しの季節がやってきた。
ヒンドゥー教といえば神様の数がめっちゃ多いことで知られているが、
神様が多いというのも大変なんだなーと思う文章が新聞のコラムにあり、
面白かったので翻訳してみました。
こんなにぎゅーぎゅーじゃあ拝む方も大変だよな~+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
一神主義こそヒンドゥー教の伝統――カールティケーヤ・スィン
(ハマーラー・マハーナガル 2013年8月1日付)
宗教講座のレクチャーを終えて、聴講者のみなさんに質問を促した。そこである方が挙手されて言うところによれば、ヒンドゥー教の神様の数が多いために、ひどく困っておられるとのこと。神様が多すぎて、礼拝するのが大変なのだそうだ。曰く、彼の家の祭壇には、少なく見ても九人か十人の神様・女神様の写真が飾ってあるのだが、その中の一人の神様にすら、心ゆくまで礼拝することができない。誰か一人の礼拝をたくさんして、他の誰かがおろそかになってしまうと、なにか後ろめたい気持ちになってしまう。今日はハヌマーンの礼拝までに残り時間が少なくなってしまって、ハヌマーンの礼拝はさっさとおざなりに済ませてしまった。さてまた別の日には、ハヌマーンに長い時間を割いたはいいが、ドゥルガーの礼拝にあまり集中できなかった。時には他の神様すべてを省いて、誰か一人だけを崇拝するようにしたい、という気もするのだが、いざ祭壇の前に座ってみると、考えが変わってしまうのだ。もしシヴァの礼拝だけしかしなかったら、残りの女神様・神様はどうなるのか。または、もし残りの神様が皆お怒りになったら私はどうなってしまうのか……心のどこかしらで、そんな思いがするのである。そんなわけで結局は、すべての神様に灯明を捧げ、初めて安寧に至る。
彼のこの悩みはあどけなくも思えるが、一方、心理的、哲学的に深い意味のある疑問を投げかけている。まず最初に私が言いたいのは、そんなのは礼拝などではない、ということ。
まるで綱渡りでもやっているように、ロープの上をおそるおそる歩いてなんとかバランスを取るなどというのは、礼拝とは呼べない。恐怖と信仰とは、互いに敵対するもの、対極に位置するものだ。神様の機嫌を損ねないように、という恐怖心があるなら、そこには真実の信仰は存在し得ない。人を恐怖から解き放つことのできない宗教など無意味だし、怖れを基盤とした宗教は、人間の宗教的発展を妨げる毒素のようなものだ。人は神を前にして礼拝する時、知らず知らずのうちに、いい言葉遣いをしている。自己のあまり良くない考えなどを押し隠して自分を少しの間だけ善良に見せるよう努める。まるで神が、欠点を見抜けない、善良さに感心して慈悲の雨を降らしてくれる地位のある人間ででもあるかのように。人々は神々にものすごく気を遣って喋っている。弱い人間が、力の強い横暴な人間と話す時のように。これは何なのか? 我々は自分を子どもだましに騙していないか?
こんな話を読んだことがある。ある王様が、シヴァ神のパンチャークシャリー・マントラを何十万回か唱えるべく座った。が、何かの理由で考えていた通りの回数を唱えることができなかった。そこで怒ったシヴァ神が彼から王権を奪った――。誰が書いたか知らないが、こうした話は、宗教に恐怖の要素を植えつける意図で書かれている。レクチャーで質問された方にしても、ハヌマーンに比べてドゥルガーの礼拝が短くなってしまったからと言って、ドゥルガーに「ちょっと行って懲らしめなくちゃ」と思われてしまう、と感じておられる。我々は、妬みや怒り、復讐といった人間の無智・無明から来る感情を、神々の中にも当てはめて見てしまっているのである。(後略)+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
ヒンドゥー家庭にお邪魔すると、たいていの家に祭壇はあって、
余裕のある家庭になると、礼拝のためだけに使われる部屋があったりする。
ティカの赤い粉やら花びらやらオイル、その他プージャー(礼拝)に使う
もろもろの成分がしみ込み、軽く小汚い印象すら憶える、使い込まれた祭壇。
特定の神様ひとりだけが飾ってあったことは、今までたぶんないと思う。
神様が数人の他に、スピリチュアル・グルと呼ばれる故人・現役の
導師の写真を飾っている人も多い。それはそれはにぎやかだ。
そんなのを当たり前に思っていたので、こういう論旨で
新聞記事が出ていたのが新鮮に思えたのでした。
そもそも人々の心の平安のためにある宗教で、
礼拝が悩みの種になるようでは本末転倒だという論旨はもっともだと思うけど、
おじさんが、祭壇のたくさんの神様たちを前にして、
日々あれこれ悩ましくプージャーをしている様子を思い浮かべたら、
なんだかちょっと微笑ましいではないですか。
こういうイメージも、実は一粒で二度おいしい、が目的?